トークイベントレポート

東京カメラ部 10選 2014 写真展:1億人が選んだ、10枚。【OLYMPUSトークショー】

2014年6月18日(水)~30日(月)、東京・渋谷ヒカリエにて「東京カメラ部 2014写真展」が開催されました。開催期間中のイベントステージでは多くの人気フォトグラファーをお招きして、写真を見ながらのトークショーが行われました。

6月22日(日)に行われたオリンパスのトークショーでは安田菜津紀さんにご出演いただき、東日本大震災以降に撮り続けている陸前高田市を写真を見ながら「写真にできることは何だろうか?」と、私たちに問いかけ、改めて考えるきっかけを与えていただく内容をお話しいただきました。

OLYMPUSトークショー

フォトジャーナリストの安田菜津紀さん。東日本大震災以降、陸前高田市を中心に被災地を記録し続けています。

写真のチカラとは? 写真にできることは何なのか?

安田さんの義理のご両親のご自宅は東日本大震災で被害が大きかった岩手県陸前高田にあり、お義母様を津波で亡くされました。震災以降、陸前高田市で撮り続けてきたことをお話しいただきました。

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陸前高田の町は津波ですべてを流されました。あらゆる写真が流されハードディスクは動かず、お義母様の遺影に選ぶことができたのは、義弟さんの携帯の中に残っていた写メの1枚だったそうです。

2011年3月11日午後2時46分。安田さんは、日本国内ではなくフィルピンの静かな山奥で過ごしていたそうです。それは1本の日本からの電話から始まったそうです。

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「“どうやら東北で地震が起きたらしいので、一応お伝えしておこう”と。そんな緊張感のない電話でした。その時はだれも正確な情報を把握しきれてはいませんでした。ただ、その日のうちに次々と情報が入ってきます。その日、私が最後に受け取ったニュースは、今回の震災は地震のエネルギーだけでみると阪神淡路大震災の800倍です。というものでした。3月12日、フィリピンでもわずかですが津波が到達しています。そしてフィリピンの地元の新聞で、陸前高田市のことがただひと言、“壊滅”と書かれていました」

震災直後、フォトジャーナリストには2つの声がかけられたそうです。

すでに現地に向かったフォトジャーナリストに対しては“なぜ今、写真を撮りに行く人間が現地に行くのか? 写真を撮っている場合なんだろうか? 瓦礫の撤去でも物資の運搬でもやれることをやるべきなのではないのか?”という声。

現地に行かないという選択をしていたフォトジャーナリストに対しては、“なぜ写真を撮る人間が現地に行かないのか? どんな現場でも真っ先に入って写真で伝えるのが、あなたたちの仕事ではないのか?”という声。

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安田さんは問いかけます。 「みなさんであればあの時、どんな声をかけられたでしょうか。そして、みなさん自身はどのような行動をされていたでしょうか。私たちが写真を撮ったからといって、東北に広がる瓦礫をどけられるわけではありません。けがをした人たちのけがが治るわけでもありません。避難所の人たちがおなかいっぱいになるわけでもない。写真にできることってなんだろう? 写真にできることは残されているのだろうか?」と。

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陸前高田は、震災前は人口二万人強ほどの小さな町でした。その中で死者行方不明者の数はあわせて二千人ちかくにもおよびました。

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2011年3月、安田さんが現地に駆けつけ見た陸前高田という町は、そこにどんな町が存在したのか想像できないほど、町の中心地がごっそりと流された状態だったそうです。ここから先3枚は、安田さん自身ではなく、安田さんのお義父様が勤めていた県立高田病院から撮ったものです。

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この3枚の写真を撮った後、お義父様は首まで波に浸かったそうです。お義父様に言わせると、写真を撮っていたときはまったく怖くなかったそうです。目の前に広がっている光景があまりにも現実離れしすぎていて、怖いという実感がまったく湧かなかったそうです。

当時、県立高田病院は停電していて、安田さんのお義父様は看護師さんと一緒に人工呼吸器が必要な患者さんの人工呼吸をしていたそうです。その時、波が襲ってきました。幸いにも患者さんが横たわっていたマットは空気が入っていたマットだったそうで、お義父様はそこにしがみつきながら人工呼吸を続けたそうです。

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「3月11日、何とか助け出すことができた100人の患者さんたちと一緒に寒空の下、一晩を病院の屋上で過ごしたそうです。過ごしながら、なぜ100人以外の患者さんを助けることができなかったのか、義父は自分自身をずっと、ずっと責め続けたそうです。そして3月12日。自衛隊のヘリコプターで救助された際に義母の行方不明がわかりました」

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「義母の名前はサトウジュンコといいます。佐藤という苗字は日本でいちばん多い苗字です。被害者名簿には何度も何度も同姓同名が上がりました。そのたびに私たちは喜んで避難所に行って、それはすべて人違いで終わっていきました。やがて私たちは避難所を巡るのをやめました。待っていたのは、何百ものご遺体が並ぶ遺体安置所に通う日々です」

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「二週間後、義母の車だけが見つかりました。ギアはパーキングのまま。車で逃ていないのは確かでした」

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「グチャグチャになってしまった義母の車からナンバープレートだけを取り上げた時の気持ちを今でも忘れることはできません」

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震災から一ヶ月近く経った、4月9日。陸前高田の気仙川の上流、9キロ地点。海などまったく見えない瓦礫の下で、ようやくお義母様が見つかったそうです。 「義母は手話の通訳として活動していた人間でした。今回の震災に限らず、津波警報が鳴ると真っ先に耳の聞こえない人たちのもとに走ったそうです。こんな時くらいは、こんな時だからこそ…自分自身の身の安全を第一に考えてほしかった。そう考える反面、最後までだれかのために生きた義母の命がこの町の中にあるのであれば、彼女の命をこの町の中でつないでいきたい。そう考えて、私たちは陸前高田という町にとどまることに決めました」

圧倒的に破壊されてしまった町を前に、安田さんは何を撮っていいのか、何を発信していいのかまったくわからなかったそうです。その中で3月にほぼ唯一シャッターを切れたのが、7万本の松が生えていた高田松原に残された1本の松でした。

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「みなさんはこの松を見た時、どんな気持ちになるでしょうか? 私はこの松を見た時、なにか力を与えてくれるような希望の象徴のような気がして夢中でシャッターを切りました。その写真は後日新聞に掲載されて、タイトルには“希望の松”とつけられました。私はその新聞を持って、被災した義父のところにいきました。義父は第一声、声を荒げてこう言いました。“なんでこんなに海の近くに寄ったんだ。このときもう一回地震が来て、もう一回津波が来てみろ。どうやって逃げるつもりだったんだ?”と。」

一本松の写真は、以前の7万本の松を知らない人が見たら希望の象徴のように見えるかもしれません。しかし、以前の7万本の松と一緒に暮らしてきた人間にとっては、津波の威力を象徴するなにものでもないそうです。 「たった一枚の写真が、義父が首まで波に浸かった記憶をいっきに呼び起こしていました。自分はだれのための希望をこの写真に込めたかったんだろう? だれの立場にたって写真を撮ろうとしていたのだろう? どうしてシャッターを切る前に、もっと人の声に耳を傾けなかったのだろう? 写真を撮る人間として、そしてひとりの人間として、自分自身の行動が軽率だったことを本当に恥ずかしく思いました」

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それから一ヶ月経った、4月21日。陸前高田でも小学校、中学校の入学式がようやく行われることになったそうです。

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「私にとって一生忘れることのできない日になりました。町の写真館は残念ながら全て被災しています。私たち写真家が初めてお手伝いをさせてもらえたのが、小学校・中学校の入学式の記念写真のお手伝いでした。私が担当させてもらったのは気仙小学校という気仙川の河口にもっとも近かった小学校です。校舎は全壊し、体育館は燃えていました」

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「気仙小学校は避難所に指定されていました。たくさんの大人たちが避難してきたところに津波が襲い掛かってきて、少し前に裏の山に避難していた子どもたちは、足元で近所の大人たちが流されていくのをただ見ることしかできなかった。そんな小学校でした。気仙小学校の入学式は、高台に残った長部小学校の合同の教室で行われました」

気仙小学校に無事に入学できたのは、たったふたりの児童。長部小学校の図書室を使って、小さな小さな入学式が行われました。保護者の代表の方がふたりに呼びかけたそうです。

「ふたりの命がこの町みんなにとっての宝物です。校舎はなくなってしまったけど、小学校に通う6年間、これだけは約束してほしい。みんなの宝物であるその命を6年かけて磨き続けてください」と。

入学式を行うことができたのは、この日を迎えるために奔走してきた方々、避難所暮らしに耐えてきた親御さんや子どもたち自身の努力、飾りつけを手伝ってくれた上級生、前日まで泥かきを手伝ってくれた県外からのボランティアさんたち、現地にはいけないけどと服や道具箱を送ってくれた方々などたくさんの人の力が集まったからだと、安田さんはおっしゃいました。

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「写真にできる役割というのは、最後の最後、ほんの一握りでした。ひとりの人間が全ての役割を果たすことはできません。それぞれができることを持ち寄れば、乗り越えられる日があるかもしれない。ふたりの命がこの日、私たちに大切なことを教えてくれました。この気仙小学校に入学したアオイ君とフミヤ君。のちほどまた登場しますので、お顔を覚えてもらえるとうれしいです」

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2011年3月11日からの1年間。それが早かったのか遅かったのか、安田さんはうまくつかむことができなかったそうです。この写真は2011年3月に安田さんのお義父様、お義母様が暮らしていた官舎です。

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こちらの写真は2012年3月12日に撮影されたものです。この部屋で流れたはずの時間は震災から止まったままだったそうです。

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お義母様の一周忌の日。家族写真を撮りたいといったのは義弟さんだったそうです。左から旦那様、義弟さん、お義母様の遺影、お義父様です。この日、お義父様はこんなことを言っていたそうです。 「時間さえ経てば、きっと何かが変わってくれると思ってこの一年間をやり過ごしてきた。ただ一年経って自分自身の心は一歩も前に進んでいない」と。

それからしばらくお義父様は陸前高田に近づくことはできなかったそうです。近づこうとすると手が震え、呼吸が苦しくなったそうです。

「震災後、テレビや新聞では“がんばれ、がんばれ!”“復興へ、復興へ!”という言葉が溢れるようになりました。そのたびに“自分はがんばれていないからダメなんだ”“自分は復興に携われていないからダメな人間なんだ”…義父の心が追い詰められていくのがよくわかりました。“復興へ、復興へ!”という言葉の裏には大切なものを失って、いまだに声を上げることすらできない、たくさんの沈黙があることを義父の姿を通して感じました」

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2014年。東日本大震災から3年が経ち、陸前高田の町で少しずつ少しずつ息を吹き返した場所があります。陸前高田市を含めて三陸の沿岸はあまり知られていませんが、世界三大漁場に数えられるほどの非常に豊かな海だそうです。南三陸の広田湾には陸前高田の名物でもある牡蠣の養殖場があります。

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牡蠣養殖を営んでいる佐々木さん親子の息子さんの学さん、洋一さんです。

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おふたりの船である丸吉丸は、瓦礫の中からほとんど無傷で奇跡的に助け出された船です。

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「震災直後、牡蠣の養殖を再開するとおふたりの意思がすぐに決まったわけではありません。おふたりの礎を築いてきたおじいさんである健太郎さんが洋一さんの目の前で波に飲まれて3年以上経った今でも行方不明の状態が続いているからです。震災直後、少しだけ暖かくなって海辺に出向いた際、健太郎さんを探しているとき、足元にあるロープや網を見て“これは使えるかもしれない”と思ったそうです。本能的に考えている自分たちに気づき、“これはやれっと言われているんだ”と思い牡蠣の養殖を再開することを決めました。ふたりにそれ以外の選択肢はなかったそうです」

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骨組みだけになってしまった牡蠣養殖の作業場です。

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骨組みだけになった作業場にテントを掲げて、そこに地元のお母さんたちがていねいに、ていねいに牡蠣をひとつずつ整えていきます。

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秋になり夜明け前に出向した丸吉丸が、二年間の思いがいっぱいにつまった牡蠣をひとつずつ、ひとつずつあげていきます。

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佐々木家の牡蠣は春先がいちばん身がふっくらとして美味しく、「雪解け牡蠣」という愛称で知られているそうです。

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「ちょうど今年の牡蠣のシーズンが終わりました。来年の春、佐々木家の努力の結晶である雪解け牡蠣を楽しみにしていただけるとうれしいです」

海と一緒に立ち上がってきた61歳のベテラン漁師である菅野修一さんのお話しもしていただきました。菅野さんは、安田さんがもっともお世話になっている漁師さんのひとりだそうです。

3月11日、菅野さんは港でひとり作業をしていたそうです。立っていられないほどの揺れが収まったのち、船が波に飲まれないように菅野さんはすぐに船で沖合に出ていきます。 無線でやりとりをしている仲間たちが次々に波に飲まれていくのがわかったそうです。わかりながらも戻ることも助けに行くこともできなかった。菅野さんが瓦礫をかき分けて無事に陸へたどり着いたのは震災から二日後の3月13日。

最初は菅野さんも、“もう海の仕事をするのはやめよう。あれだけ町を破壊しつくし、人の命を奪っていった海に向かっていくのはやめよう。”と思ったそうです。

そんな菅野さんの背中を押したのがお孫さんのひと言だったそうです。

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「一番下のお孫さんは修生君といい、愛称はシュッペと呼ばれています。震災後の何週間は物資の缶詰の食事が続きました。その缶詰の食事を食べているとき、シュッペがいったそうです。

“じいちゃん、じいちゃんが獲ってきた白いお魚がもう一度食べたい”と。

そのひと言が菅野さんをもう一度海へと向かわせてくれたそうです。」

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「日曜日。気が向いた時だけですが、シュッペは小さな漁師になってくれます。あれだけ町を破壊しつくし、人の命を奪っていった海。その海の力を借りてもう一度立ち上がろうとしている人たちがいます」

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もう少しでシュッペの大好きな夏が陸前高田にも訪れようとしています。

2014年、6月で東日本大震災から3年と3ヶ月が経ちました。海を望む陸前高田の町は、刻一刻と変化をしていきます。

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「義父と義母が住んでいた官舎はもうそこにはありません。私は今、この陸前高田の町で少しでも多くのシャッターを切りたいと思っています。それはこの悲しみを二度と起こしてはいけないという教訓の作業でもあって、そしてこの町の中にある愛おしいものを少しでも残したいという作業でもあります」

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「この町にある愛おしいものとはなんだろうと考えました。震災直後の気仙小学校の入学式で撮影させてもらったアオイ君とフミヤ君。彼らは今、新四年生になりました」

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「少しずつ、少しずつ大きくなっていく子どもたち。今この町でいちばんの楽しみは、このふたりの卒業式の写真を撮ることです」

安田さんは最後に、
「本日お集まりいただいたみなさまとは、“写真”というキーワードでつながっていると思います。写真に残せるものってなんだろう? 写真を通して何の役割が果たせるのか? これらのことを、ひとつの大きな課題としてみなさんと考えていければと思います」という言葉で締めくくられました。

安田さん、ありがとうございました。


(写真・文 加藤マキ子)

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